昭和四十三年三月九日 朝の御理解
久留米のすしかつさんという寿司屋ですけれども、夫婦、、夫婦って、こちらの息子さん達、親子三人、赤ちゃんができたんです。親子三人で、御礼参拝して来ました。午後からでございますから、ここに居りませんでしたけれども、是非私に会いたいと控えに下っとりましたから、出て参りましたら、親子三人で参って来た。可愛らしい赤ちゃんだっこして来とります。それで、「どうぞ、先生あの子供が一生幸せである様に、夫婦で子供を連れてお参りしました。」と言うわけなんですね。それで、私お願い致しましょうって、あのいつもの様に、神様に赤ん坊を御神前に連れて行きましてね、一緒に御祈念して、そして、まあ両親に申しました事ですけれども、いつでも子供が可愛くない、という親はありません。子供が可愛いなら一つ、親自体が改まった生活に入らしてもろうてね、子供の為に一つこれから信心させてもらわにゃいけませんね。成程、子供の一生の幸せのおかげ頂く為にいっぺんお参りしときゃいいという様な考え方の人もやっぱりあるんです。そりゃあ、神様聞いて下さらんこたあないですよね。またそりゃあそうです。昨日は、こうらかいかんの御主人達が夫婦で、毎日参って来ます。もう、そりゃあ大変な問題で、実は初め参ってきたんですけれども。毎日、だいたい浮羽郡の方ですから、帰り道に夫婦で寄られるんです。それで私は、あの、どうも、もう一日の御用を頂き終わって、しかも商売が思わしくない。それにもう沢山の借財ひっかろうて、そして神社側の方からは、もうまるきり、何て言うですか、だましうちの様な事で、その色んな迷惑をかけられてですね、もうほんとに、へとへとになっておられるわけですね。それでまあ、いうなら、もうほんとに、あの銀行に金借りに行く時のごたる気持ちで参って来る。ほいで私が「せっかくならね、ここ前を通られるんだから、朝もう三十分早う参ってらっしゃい。そしてから、まあ、出がけにお参りされたらいいですよ」ところがこの頃、やっぱり元気がでましてね、何とはなしに活き活きとして。何と顔色まで変わって来た感じですね。やはり、そう、まあ私が申します様に、教会には金借りに来る様な気持ちではなくて、金を預けに来る様な気持ちでお参りが出来る様になった。最近は行きもどり寄って行かれる、ね。昨日帰りに寄られてから、ここでもう大変、もう難儀な問題がいくつもございましたですけども、昨日ここへ御主人が来てから言われるのに、「先生、どうやら軌道にのりそうです。ここまでは私の実力で頑張らしてもらいましたから、これからはいよいよ、いっちょ神様のおかげ頂かなければなりません」と言われるわけなんです。もう倒産寸前にあったんですよね。それが今、そういう事ではいけん。こうして、ああしてというて、その御神意のままに動かして頂いておるうちに、まあそういうですね、ここへお参りして来る様になって二ヵ月あまりでしょうけれども、おかげ頂きましてから、まあどうやら軌道に乗ったという所まで行った。けれども本人は、やっぱりどこまでも自分の実力でここまでやって来たと、こう言われるわけ、「そんな事ないです。神のおかげ頂いたとですよ」と、まあ普通なら言いたい所で、また私もそう思うんですけれども、本人はやはりそこまではわかっておられんので御座いますからね。「まあ、いっちょこれからの所を、一つお願い致しましょうね」と言うて、まあ申しました事です。だんだん信心をさしてもらい、お話を頂きわかってまいりますと、どうでも信心が中心にならにゃあいかん。話を聞いて、自分の改まりの生活、そこでおかげを頂かして頂く為には、どういう信心をさせて頂いたらよいかと、どこに自分のおかげ受けられないもとがあるか、どうしたらこの難儀から有難い、いわゆる難儀から抜け出る事が出来るか、どういう信心をさしてもらえば、おかげを頂けるかというところに、だんだん信心が進んで来る。だから話を聞く事も真剣になり、修行も本気になって来る、ね。だんだんおかげを頂いて来るわけです。まあいうなら、おかげを頂かんならんからお参りをして来るというわけです。初め、しかも、もう、まあひどいですね、この子の一生の幸せの為に夫婦で参って来た。夫婦で親子三人、ここで参ってお願いしときゃ、もうこの子の一生の幸せになる。そりゃあ神様が「そげなこっちゃあ聞かん」とおっしゃる神様でもないでしょうけれどもね。それだけではおかげを受けておっても、おかげをおかげと実感しきらん。問題は、おかげをおかげと実感するというか、有難いと思わせてもらえると言う事が信心なんだ。けれども、やっぱ初めはそうなんです。御主人の方は二度目でした。初め生まれた時にお名前を頂きに来た時が初めて。お母さんはちょいちょい参って来るんですね。おばあちゃんは。それで、まあお母さんに進められてからお名前を頂きに来たんです。ほいで今度二度目には、その夫婦で子供を連れてからお参りしてまいりました。そしてこの子の一生幸せの為に、後の事はお取り次ぎさせて頂きましょうけれども、いよいよ幸せになる為に、そりゃ親も子もね、この子の為に本気で一つ、お母さんお父さんが信心してあげなければいけませんね。子供の為にという事にまあ、まあその程度ですね。
今のこうら会館の事なんかは、もうとにかく苦し紛れに一生懸命お参りをする。お参りをするけれども有難いもなあんにもない。それこそ銀行に金借りに来るごたる。とにかく悲しい時も苦しい時の神頼み。何ともなしにお参りをさせて頂いておるうちにです、二ヵ月あまりの間に、昨日の御主人の言葉を借りるとです、何とはなしに軌道に乗ったとこう言われる。もうそのかわりに、もう様々な働きがあった様ですね。市長さんやあたりが、その、本気で後援して下さるといった様な働きが生まれてですね、御主人、最近お商売の方も何とはなしに、こう今までと違ったおかげを頂いて来たんですね。そこでまあ、ここまでは自分の実力で軌道に乗ったと。ああ苦しい、ああいよいよあの手、この手を打ってここまでやってきた。やっぱ自分の実力と思われるのも無理はないのです。そこで、これからいつまでも神様のおかげ頂かにゃ、とこういうわけなんです。その思いの中でも、まあ銀行に金を借りに行く様な気持ちで、その信心から、いわば朝三、四十分早く起きてから、行きがけにお参りするというくらいに信心が少し活き活きして来た。そして帰りもやっぱり、お天気が良いとお商売が多いらしんですよ。そいでやっぱり嬉しんですね。今日はもうこんな風にお商売の方も繁盛致しましたという様に、その、嬉しいから帰りに御礼参拝して帰るという様な毎日を過ごしておられます。同時に、又ここで信心の稽古を皆さんが、もう稽古というてなさっておられる方達も、やはりおかげを受けなければならんのですけれども、ね。そこでは、その、どういうふうに自分が改まり、どういう気持ちで修行さしてもらえ、どういう信心をさして頂いたら思うても、なかなか自分の思う様なおかげにならんけれども、ならねばならんほどにその思いがつのって来る。「お父さん、どげな信心をすりゃあおかげ頂けるじゃろかの」「さあて、おれもそこば考えよる」て「一つ今までの行き方少し変えてみようじゃないの。先生が方向を変えろとおっしゃるから、どうでも方向を変えにゃいかんですね」と言うて、昨日も、もうこの方は十五年も参っておる御夫婦ですけれども、夫婦で参って、そんなふうにして夫婦で話会いますとこういう。子供たちがついてこんのはなぜか、商売が繁盛しないのはなぜか、その上にかけて、加えてこういう様な難儀が起こっておるが、どういうわけだろう、十五年も信心さして頂いておるのに、こりゃあ何か神様が「改まれ、さあ方向を変えろ、向きを変えろ」というておられるとに違いないが、お父さんどげな信心したら【 】からおかげ頂けるじゃろうかの、というてお話合いをしておりますとこう【 】今の信心の姿じゃないかと思うです、ね。いわゆる信心に向きが変えられる。ところが、最近私が言うておる事は違うですね。皆さんどういう風に違うと思われます。
最近、還元という事が言われていた。そして最近は「信心は親に孝行するも同じ事ぞや」その前に「神は我が本体の親ぞ。信心は親に孝行するも同じ事ぞや]という、そういう信心にならなければならないといっているわけ、ね。それにはですね、どうするか、どういう様な生き方になりゃ、おかげになるじゃろうかといった様な、全然無いとですよ。どげな信心さしてもろうたらおかげ頂けるじゃろうか。おかげ頂く為に信心の方向を変えようというのじゃないのですよ。最近私が毎日言うておる事は、どういう心がけにならせて頂いたら神様が喜びなさるじゃろうか、どういう信心させてもろうたら神様が安心して下さるじゃろうか、ね。どういう修行させて頂いたら、神様が喜んで受けて下さる様な修行になるだろうか。そこにはおかげはないでしょうが、どういう信心させて頂いたら神様が喜んでくださるじゃろうかという事に、焦点おかれておるです、ね。非常に私は、もう、まあ高度になって来たと。信心が、昨日私が皆さんに今日、私が本当に嬉しゅうてたまらん。どうして神様こげな有難い事を十八年間も教えて下さらなかったんだろう言うて、お話しましたですね。こりゃあもう、私だけが嬉しんですから、昨日も皆さんには申しませんでした。何故嬉しいか。けども今日はそれ言わなきゃならない事になったんですけれども、皆さん気付かれたでしょうが、ちょうど五時三十分にきっちり御祈念が終わりますね。私もこれが一つこの形になるだろうと思うんですよ。私、別に五時半に止めようと思うたわけじゃないけれども、ここでつかせて頂いたら、ちょうど五時半でした。だからこれからがここの朝の御祈念の一つのスタイルになるわけなんです。朝の五時の御祈念は変わりませんけれども、ここに五時半に終わる。そして、例えば私が三十分間御理解を皆さんに聞いてもらいましても、六時には終わるちゅう事になります。皆さん大変助かるでしょうと言うて、わたしゃ皆さん本位になったわけじゃないですよ。これ神様の本位です。と言うて私は、ほんなら三十分ば【 】の御祈念じゃ、私自身できません。私の気がおさまらん。そこで私はですね、昨日気付かせて頂いた事なんですけれども、ハァ、ほんとに金光様の御信心、金光様の御内容ね、御内容を頂かなければ、という事がしきりに言われます。ただ言われておるだけで、けんかしただけでわかるもんじゃないと、わたしゃ思うんですね。やはりまね方でも、やはり金光様の三時五十分に大広前にお出ましになるのですから、私も、私もですよ、これはね、三時五十分に一つここに出らせて頂こうと。そして四時から金光様の御祈念にあわせて、金光様が【 】付かれた時に私も【 】に付かせて頂こう。もうこげな簡単な事がどうして今までわからなかっただろうかとわたしゃ思うです。さあ、それを思わせてもらい、気付かせてもらったら御祈念中嬉しゅうて嬉しゅうてたまらん。今朝、いわゆる三時五十分ここに出て参りましてから、四時から御祈念をさせて頂きました。そしてまあ、それこそ心行くまで御祈念させて頂きましたら、ここに降りてみたら、今何時かちゅうたら、ちょうど四時五十分だとこう申します。十分あればお水をあげる事が出来る。御神飯をお供えする事も出来ます。それで、私、前の様に御祈念が出来て、そして御祈念の時間が三十分間に短縮した。四十五分間早くなった、ね。今まで六時十五分に終わっておった御祈念がそういう事なんです。そこで皆さん、でも、まあ、たまにゃ、もう三時頃目が覚めてという事もありましょうが、だから皆さんが、四時にもしここにみえると、金光様の御祈念に合わせてまた、親先生の御祈念に合わせて、なら、静かに静かにですよ、ね、もう拍手を打っちゃいけません【 】朝御祈念しよりますからね。その御祈念さして頂くという様な事にもね、皆さんが、あの本当のそうなさらなきゃならんのじゃないですよ。けどもそういう場合には、そういう風になさるといいと思うんです。私はあの今、もう本当にちょっとした驚きでした。というのは昨日、お昼下さってお食事をさしてもらっております時に、この事は家内だけには言っとかなきゃいけない思いがしましたからね。「実はね、これはもちろん、もう、本当にうれしゅうて、うれしゅうて、明日から四時の御祈念をさせて頂く事にしたから、そのつもりでお前は休んでいてもかまわんけども、私は三時十五分~三時五十分には大広前に出れる様にして、私はあの起きて行くからそのつもりでやってくれと。御神飯そうしなけりゃ、いや御神飯は今まで道りでかまわん。五時の御祈念には間に合うようにしてもらえばいい。というて家内に申しましたら、家内がこういう事を言うんですよ。「ああ、先生やっぱそうじゃったかすか」ちっ、言いますもん。どうして何がそうじゃったかいう。実はあの今朝方、昨日の言葉に、今朝方、福岡の方達が皆お茶を頂きに、食堂にやって参りました。そしたら、秋永先生が皆に今日、親先生がうれしか、うれしか、ちゅっ。お前ら分かるかちゅうが、だあれん、さぁ、どげんな事、先生があげん喜びなさったか、いろいろ想像したわけなんです、ね。皆が「俺は思う。見てみれ。明日から御祈念が早うなるか、遅うなるかするぞ。」と言うたそうです。私はそれを聞いてびっくり致しましですね。私がいつも、秋永先生、私の代弁者として言う事でもですね、私の言いたい事を言うて下さっておるなあと、思うんですけれども、これ皆が[ ]つながりというものができれば、そこが、可能じゃなかですかね。何とは何しに、今日、先生が嬉しい、嬉しいというござる。お前もわかるか、誰もわかるものいなっかった。それを、家内が横で聞いとったわけなんです、ね。今朝、秋永先生が「まあ、そうですか」っち、びっくりしとりました。秋永先生が、今朝「俺は分かっとる。見よってみい。明日から御祈念が早ようなるか、遅うなるかぞ。」と言うとる。まさしく、その通りである。それが、どういうふうにして、その私の心が秋永先生に通って行くかと言うとですね。私の信心の過程に道すがらに、いつもこれにピックアップしてきておるという事です。
最近私が申しております様にです、「神は我が本体の親ぞ」「信心は親に孝行するも同じ事ぞや」いうならば、もう当たり前の事として修行が出来る。例えば昨日、私がどうして神様がこういう素晴らしい事を十八年間も教えて下さらなかっただろうか。何のその、こげんして孝行しろ、あげんして孝行しろって言うて親が子供に言うはずがないですよ。親孝行というのは、子供が自発的にああでのなかろうか、こうでもなかろうかと思いに思い続けさせてもろうて、はあそうすれば親が喜ぶに違いない、それが親孝行なんです。神様がそれを教えて下さるはずがない。ハッとこちらが気付かせて頂いて、その事にならせて頂いたら親も喜び、こちらの心に喜びになって返って来る様に、昨日の朝は嬉しゅうて嬉しゅうてたまらんじゃった。神様が、金光様がね、嬉しゅうて嬉しゅうてたまらんでおられたのじゃなかろうか、いうふうに感ずる。
最近、秋永先生が、あの寒修行からそしてこっち、寒修行中何とはなしに不自然ないわば、お参りだったけれども、最近はそれがもう当たり前の事としてですね、仕事の上に何かスム-ズに信心と朝参り、いわゆる、特に朝参りとお仕事がですね、もう実に、こうピッタリした所の御用が頂かれるとこう言う。しかも、それがもう当たり前の事になって来た。いわゆるこういう条件、こうせねゃならんからこれを払わんならんけん、ちいとここで頑張ろうじゃないかというんじゃなくてですね、いわゆる心が「親に孝行するも同じ事ぞや」という様な信心になって来た。私の信心に入って来た。だからそういう様な交流がある事も又不思議じゃないと思うんですよ。皆さんそうでしょうが。どげな信心をすりゃおかげ頂けるじゃろうかと私は思うんです。そして心を練って練って改まりもしょう、磨きもしょう。けれども、もうそこん所は問題じゃない。どういう信心をさせてもろうたら神様が喜んでくださるだろうか、無条件に無条件の還元なんです。いわゆる、時間の還元、浄財の還元、それは無条件なのだ。おかげ頂かんならんけんじゃない。そこに私は「親に孝行するも同じじゃ」という信心があると思うんです。だからこそ例えば、私が嬉しい嬉しいと言うておる、その何が原因で先生があぎゃん嬉しいしとるかという事がです、私はわかるじゃなかろうかと、いわば私と金光様が昨日通うた様に、私達と先生が通うたのじゃないかと思うんです。それは信心のね、まあしじそうと申しましょうか、信心の過程、信心の程度と申しましょうか、この子の為に親子三人でいっぺんお参りをさして頂いとりゃ、この子の一生をお願いして行こうといった様なお参りから、それこそ苦しい事の為に苦しい時の神頼み的に、ただお参りをしておるうちに、何とななしに心が活き活きとして来て、どうにも出来なかった仕事が軌道に乗って来た、いわば神様にすがって頑張って来たというだけの事だ。頑張って来た、止めようと思っても頑張って来た。ここまでは自分の実力だから、これからは神様のおかげ頂こうという様な考え方。昨日北野の秋山さんがお導きして参ったこくえき燃料の奥さんがやっぱりそうでした。三回程参ってまいりました。ところがね、参って来るたんびに心の中に強うなる事はですね、あれ以来私の心の中に何とはなしによりどころを頂いた感じだとこういう。そして何か嬉しい事やら有難いその事があると、ああこりゃあ金光様のおかげじゃろうと言うて御礼ば申し上げる様な気持ちが生まれて来た言う。こりゃあ信心ちゃ有難いけん、今日もどうでんこうでんお参りしたいから、あなた何時頃参る、何時ここへ来とってくれというまだその程度ですけれども、秋山さん昨日は、あの三度参って来たわけですね。いうなら夜参って来るから、その人の為にまたちょっと前に参って来た、で、その方とここで落ち合ってから、ここでおかげおかげ頂いとりましたがですね、そういう様な信心お互い、だから、どうながらなけりゃならんという事じゃないけれどもです、それがね、本当の事、いや、もう今日帰って行かなければならんが、自分のはまあだこうして一生懸命改まりもしよる、頑張りもしよる、修行もしょるけれども、やっぱりここでおかげ頂きたいばっかりのものが強いという所があってもかもわんのですけれども、本当は実感的に「神は我が本体の親ぞ」いう事がわからせて頂けれる為にもね、どういう信心さして頂いたら神様が喜んで下さるだろうかと、親孝行の信心とはどういう信心じゃろうかと思いに思い続けさしてもらうところからです、神様が親孝行ちゃこげんにと教えなさるはずはないけれども、自然とホッと気付かせてもらう事がある。はあこれじゃろう、そん時に自分が嬉しゅうなる、そういう信心が私はいよいよ楽しい事になって来るのじゃなかろうか。それが私は真の信心とはそういう信心を以て真の信心というのじゃなかろうかとこう思うのです。どうぞ。